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2010年3月号
- 何かの選択を迫られた時、人は考えた末に決断をくだす。
その選択が正しいかどうかは誰にも分からない。
ただ、選択をした以上、進まないといけないわけだ。
小中学生の頃はよくアドベンチャーゲームをやっていた。
特に忘れられないのは、ファミコンのディスクシステム用で任天堂から発売された新鬼ヶ島である。
このソフトは前編と後編に分かれていて、ふぁみこん昔話をうたい文句に発売された。
その頃は新鬼ヶ島を購入するお金がなく、すぐに買うことができなかったのだけれど、ディスクシステムは当時500円でゲームの書き換えができ遊べるようになっていたのだ。
いらないディスクカードに新鬼ヶ島の書き換えをし、夢中になって遊んだ。
その頃は小学生で、親父が買ってきた世界名作劇場全巻を強制的に読めと言われていた。
せっかく僕と弟の教育のために買ってくれたのだから申し訳ないと思い世界名作劇場を読んでみたのだけれど、50冊以上もある分厚い本の山を見てしまったら読む気がしなくなってしまった。
1度嫌だと思ったら、頑固なまでに拒絶するタイプだった。
本も読まずにゲームばかりしていたら親父が激怒し、ファミコンを取り上げられ隠されてしまった。
家のどこかにあるはずだとあきらめずに家中を探し回り、ついに押入れの高いところにファミコンが隠されていることを発見し無事に奪い返した。
しかし、探しだすという選択は、親父にぶん殴られるという結末を迎えてしまうことになった。
「何で隠しているファミコンを見つけだした」
親父に投げ飛ばされぶん殴られた。
自分はどうやら引くことを知らない頑固者のようだったらしく、冬の寒い時期に家族で旅行に出かけて、気がついたら雪の中をほっぽりだされ親父に反省しろと言われたこともあった。
そんなゲームをしてはいけない状況で、親父の魔の手に怯えながら新鬼ヶ島をプレイしたのである。
何でそんな状況でゲームをしていたのだろう。
やはり、迫害されればされるほど燃えるタイプなのかもしれない。
高校生の時に新聞配達のバイトをしながら学校に通おうと考えた時、親父に真っ先に言われた。
「絶対無理だよ。やめておけ」
その言葉を聞いて異常に燃えた。できないと言われ、できるという選択をしようと決めた。
その選択は正しいかどうかは分からないけれど、自分しだいで正しくさせることはできる。
それからしばらくして、新聞配達をやり通し、親父をびっくりさせた。
だからなのだろうか。新鬼ヶ島をプレイしていた頃、ゲームをするなと言われていた時期だった。
そんな状況でも隠れてゲームをしている自分がたまらなく好きだった。
その選択を自分の意思で決めて、それが生きている実感がして楽しかった。
新鬼ヶ島というゲームの主人公は男の子と女の子で、鬼に襲われたおじいさんとおばあさんを救うために旅立ち、犬、サル、キジを仲間にして鬼ヶ島に向かうオーソドックスな物語に一見見えるのだけれど、実はそんなありきたりの物語ではない。
いろいろな昔話がミキサーにかけられ、それが前編と後編に分けられて、ふぁみこん昔話できたと登場したのである。
本はただ書いてある文章を読むだけだ。
しかし、アドベンチャーゲームは読んで自分で考えて選択し物語が臨機応変に変化したりもする。
時には選択が間違いでゲームオーバーになってしまうこともある。
人生なんて本のようにすらすらとページがめくれていくわけではないし結末だって決まっていない。
そんな中で新鬼ヶ島はプレイ中、ことごとく選択肢が現れ、コントローラーを片手に考えながら選択をした。
自分がすることは人が決めるのではない。人がお前はできないと言ってきても、自分ができると選択をしたならば、選択は正しい方向に行くのだと思う。
新鬼ヶ島をプレイしている時は、人生の選択など気にせずに夢中でプレイしただけだったのだけれど、今思えば自分で選択する大切さを新鬼ヶ島で学んでいたのかもしれない。

